頭空っぽタイム
最近やり始めたこと。
それは
刺し子
プリントされた図案の通りに針を動かすだけの作業はなかなか中毒性があります。
裁縫系にずっと苦手意識を持っている私でも平気で1時間ぐらい経ってたりする。
単純な反復作業は瞑想みたいなもんだと勝手に思っています。
ざわざわした感じが消えて、頭の中が空っぽになっていく感じ。
しばらく没頭すると、行き場のないマイナス思考は終息して、スッキリしている。
何となく始めてみたことに、意外な効果が現れた。そんな話でした。
ドロップアウト宣言
あぁ、もうはっきり言ってしまおう。
働きたくないでござる‼︎
…ふぅ、スッキリした。
今まで、夫の転勤で引っ越してもなんだかんだとパートを続けてきました。
劣等感の塊の私はどこかに所属して、自分でお金を稼がないと、この世界から脱落するとずっと怯えていたのだと思います。
でも劣等感故に無意識に頑張り過ぎていたのかもしれません。
ドリフのコントみたいに年々バリエーション豊かになっていくちっちゃな不調は年齢のせいだけじゃないし(いや、したくない)気のせいにしておくのもちょっと限界かもしれない。
そろそろのんびり自由になってもいいんじゃないかな?って素直に思うことにしました。
会社に所属して働くことが「仕事」の全てではないというか…
そうやってお金を稼ぐことだけを目的にしたくないというか…
もちろん、そこにやりがいを感じる人もいるでしょうし、私もそうあるべきだと思っていました。
でも、私は全然そういう属性じゃなく、そう思い込むことで無理をしていたのだと。
やっとそう、開き直ることができました。
どうなるのかわからないけれど、そう思って自由になることで他に進む道がちゃんとありそうな予感がする。
そう感じて行動している人もどんどん増えていますよね。
そんなわけで正々堂々とドロップアウトすることを宣言します。
さっき近所を散策して来ました。
河川敷に沿って歩いたら、知らなかった景色や道がたくさんあって、
こんなに近くなのに、本当に何にも気づかず過ごして来たことにびっくりしました。
木がたくさんあって、きれいな水の流れがあって、あんまり人が通らなくて(不審者にはなりたくないのでね!)
ぼうっとするには最適の場所は意外なくらい近くにあって、また行こうって思ったのでした。
終戦記念日に祖父に聞いた体験をまとめる
北海道の内陸で生まれた私の父方の祖父は、幼い頃に両親とともに旧樺太(サハリン)に渡り、そこで育ちました。
小学校を卒業後、洋服店に丁稚奉公に出され、そこからテイラーの道へと進んでいました。
その祖父が招集されたのは終戦間際の1944年のことでした。
旭川から千島列島に向かうと聞いていたそうです
しかし戦況が変わり、祖父は通信兵としての教育を受けることを命じられました。
成績優秀で褒められたんだ、と現在90を過ぎた祖父は笑っていました
教育が終わった祖父は南方へ向かう船に乗船
途中沢山の船が襲撃に遭い、スマトラ島まで無事に行き着いたのはわずかだったそうです。
スマトラ島の現地の人たちは日本兵には友好的で食べ物を分けてもらったと祖父は言います。
勧められて初めてバナナを食べたのはこの時だったと、バナナを見るたびに何度も話してくれました。
その後、祖父のいた部隊はスマトラ島から今度はマレー半島に向かうよう命令を受けました
マラッカ海峡を渡る前、祖父はアメリカ軍の通信を傍受したそうです
それは「日本兵の皆さんお待ちしています」というものでした。
全部見通されていたんだよ、と祖父は笑い話のように言っていました
それでも祖父のいた部隊はマラッカ海峡を渡ったそうです。
多くの船が襲撃に遭いましたが、祖父の乗った船はにシンガポールに到着しました。
そして、到着したところで終戦となったそうです
祖父はシンガポールでそのまま捕虜となり、港での荷下ろしの作業をすることになったそうです。
しかし、次々と送り込まれる捕虜を収容しきれなくなってきたため、祖父は1年程で日本に帰ることが許されました。
親戚のツテをたどって祖父は北海道の生まれ故郷に戻ることができたのですが、天候不良による食糧難で、大変ひもじい思いをしたのはその時だったそうです。
その後、樺太から曽祖父母が引き上げて来ることができました
(以前、曽祖母にその時のことを聞いてみたことがありましたが、教えてはくれませんでした。ただロシア兵を蔑称で呼び、大嫌いだと言っていたことははっきりと覚えています)
祖父は生活のために石炭採掘のきつい仕事も引き受けていたそうです。
この話は父も聞いたことがありませんでした。
その後、家族を持ち、店を持ち、孫やひ孫まで生まれ、今は穏やかな生活を送っています。
そして、平和な世の中が一番だよと言います。
祖父はたくさんの「もしも」を不思議なほどかいくぐり、生き延びることができました。
おかげで父が生まれ、私も生まれることができました。
戦争について、私は感情論で判断することは出来ません。
ただ、その時代を生き抜いた人が身近にいるのなら、その話を聞いて、どこかに記録しておこうと思いました。
その話はそれほど遠い昔のことではなく、直接自分と繋がっている過去でした。
それを実感すること、今自分が生きている意味について考えることが、私なりの終戦記念日の捉え方です。